大河ドラマ「龍馬伝」の影響で、すっかりブームとなっている坂本龍馬。彼の人気は長年にわたって根強いものがあり、衰えるところを知りません。幕末の動乱 の中で、いち早く西洋の文化に触れ、組織に捉われずに広い了見・斬新な考えで世の中の改革に奔走する…。そんな彼の姿に憧れを抱く人が多いのかも知れませ ん。私・むらやま弁護士もそんな龍馬の一ファンであります。
ところで、龍馬は法律のエキスパートとも言える活躍をしたことをご存じですか?
坂 本龍馬が海援隊を創立してまもなくの慶応3年(1867年)4月、大州藩の蒸気船いろは丸を土佐藩名義で借用して海援隊がその航海の任にあたることとなり ました。いろは丸は、長崎港を出帆し、瀬戸内海に入りましたが、4月23日夜11時ころ、讃岐の三崎半島沖にさしかかったとき、紀州和歌山藩の明光丸に横 から衝突され大破してしまったのです。これがいわゆる「いろは丸衝突事件」ですが、この事件の事後処理にあたり坂本龍馬は、万国公法すなわち今でいう国際 法を用いて、解決に導いたのです。
少し詳しく説明しますと・・・。
瀬戸内海を航行中、いろは 丸は、相手の船の右舷灯(緑色灯)を右斜に発見したので左に舵を切って避けようとしましたが、相手の船すなわち明光丸は左ではなくルールに反して右に舵を 切って進みいろは丸の右船腹に船首をぶつけたのでした。さらに、明光丸は一旦後退し、前進しながら再度船首をぶつけてきました。このとき、明光丸の甲板に は士官が一人もいませんでした。
幸い海援隊員は明光丸に乗り移り無事でしたが、いろは丸は、明光丸に曳航されてまもなく瀬戸内の海に沈んでしまいました。
海 援隊員を乗せた明光丸は鞆津に入港しましたが、わずかな談判があったものの、明光丸は龍馬らを残して、長崎に向かってしまいました。相手は御三家のひとつ 紀州藩です。龍馬は、鞆津から下関に帰り、長崎で紀州藩と戦う準備を整えました。長崎での談判は、5月15日に始まりましたが、両船の進行方向に食い違い があるなどして、なかなか一致点を見出せません。
談判は数日に亘りましたが、龍馬はこの席で、国内初の蒸気船同士の海難事故に対して、万国公法を持ち出して、事の解決を図ることを提唱したのでした。このころには、すでに西洋の国際法を扱った書物が多数翻訳されていました。龍馬はいち早く国際法に関心を寄せていたのです。
22日には、土佐を代表する後藤象二郎の弁もあり、優勢に立ち、ついに、薩摩の五代友厚の仲裁を得て、紀州藩側が賠償金八万三千両の支払いを約束して解決に至りました。
これは、大日本帝国憲法が発布される実に20余年も前のことなのです。「西洋文明の幕開け」と言われる明治維新前から国際法を用いて事件を解決に導いた坂本龍馬、改めてすごいと思いませんか?